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アンチェロッティの自叙伝「Preferisco la Coppa」
原文の紹介記事は(→コチラ)と(→コチラ)です。 なんだろう、このミスタービーンのような笑顔は!すぐ解任されたら大量に返本される予定デ~ス 「アブラモビッチに呼ばれて」 これはアンチェロッティの自叙伝"私の愛するカップ"の第1章の見出しです。メディアはよく尾ひれをつけますが、この本の中でアンチェロッティは初めて公表しました:去年の5月、ジュネーブとパリで、アブラモビッチと2度の秘密の会談があったことを。 「その時、アブラモビッチは新しい監督を探していました。私はジュネーブの豪華なホテルの中で、大勢の用心棒が取り囲む彼に会いました。」 (←チャーリーズエンジェル?) 立派な説明書きの中で、アブラモビッチはチェルシーの重厚な風格をとても感じさせました。 「アブラモビッチは私を眺め、全面的に私を理解することができると。彼は、私のサッカーの哲学を知っていました。彼はチェルシーを個性的なブランド力があるチームにしたいと望んでいて、マンチェスター・ユナイテッドとミランのように、私のチェルシーをこのようにしたいと。 談話の中で、私はアブラモビッチにこんな印象を感じました。まず、彼は恥ずかしがりや。次に、彼は博学なサッカー知識を持ち、また、彼のサッカーに対する情熱と渇望を持っています。 その会談の話題はサッカーだけで、お互いに話すのがとても楽しかった」 2週間後、アンチェロッティはまたこそこそとパリにやって来て、"ジェームズ・ボンド"になりました。 「私達は約束しました、会談を絶対に秘密にすると。タクシーに乗り、座って、運転手はひっきりなしにサイドミラーをいじって、私の表情をうかがっています。しかし私は彼に何も言うことはできない。私はひとつ、秘密の任務を遂行している。ミランで監督を務めているけど、私は真実の愛を探している道中で、それは007のようです。」 「シャンゼリゼ通りの目と鼻の先から離れたジョージ5世のホテル。"私とアブラモビッチ"の第2幕は間もなく上演します。私はサングラスをかけて、スパイのように周りを観察しながら、カメラマンや怪しいパパラッチがないことを確認し、ホテルに入りました……」 「幸か不幸か、立派なホテルに入ると、イタリアの代理人パストレーロを見つけました。彼は急いで隅っこに逃げて行きましたが、結局私は、親愛なる同業者スパレッティを見つけました。私は大いに笑って、「君もここに来たのかい?」。明らかに、彼も今日チェルシーと面会しにきたのです。 私は自分が、スーパーマーケットに飛び込んだように感じました。私達はすべて、アブラモビッチがお買い上げする内の1つです。彼は2を選ぶかもしれない、いや1を選ぶかもしれない、あるいは3は?どう選りすぐるのか?誰か知っていますか?」 「2度目の会談、アブラモビッチは以前のよおにサッカー談義に花を咲かせ、お金に対してはひと言も触れません。私はアブラモビッチに言いました。「あなたのチェルシーはフィジカルはとても強いです。しかしミッドフィルダーの技術が不足しています」アブラモビッチはシャビアロンソ、またシェフチェンコの名前を出し空想します。 とても短い時間に感じましたが、40分の談話は終わり、アブラモビッチは特に正式に"お招き"することはなく。」 ~2年間の英語レッスン、もっと前から計画的に!~ 「私は少し失望していました。しかし、本当に雷に打たれるのは、2時間後に受け取った1つの電話でした。電話主のガリアーニは言います:「パリはどうですか、美しいですか?君の駆け落ちの計画はどこまで進展しましたか?」 ボロが出ました。ガリアーニは言います、ミランを手放すことはありえないと、移籍はありえない話だと。しかし、自叙伝は読者を2009年のエイプリルフールに連れていきます、"アンチェロッティは英語能力に問題があります"という噂。 すでにスコラーリは解任され、また、間もなくヒディンクの任期も。 アンチェロッティはアブラモビッチの招待を受け取りました。 私はガリアーニを探し当て言います:「聞いてください。私はあなたに言わなければならないことがあります。私はチェルシーに行きます。」 ガリアーニ:「ありえない、このことは話さない」 アンチェロッティ:「あなたは私を引きとめておきたいと思うのですか?」 ガリアーニ:「もちろん。」 アンチェロッティ:「私は5月31日、シーズンが終わる時、最終決定をすることがありえます」 これは楽しい談話ではありません。緊迫した空気の中で、会議室のテレビの中でモウリーニョの画面が飛び出し、スペシャル・ワンは自分をイエス・キリストと例えます。 アンチェロッティは心の中で思います:主よ、寛大な心で罪をお許しください アンチェロッティは言います「アブラモビッチの人生の中で最も苦い経歴はすでに終わりました。彼はすでにモウリーニョと一緒に仕事をしたからです」 自叙伝の中で、アンチェロッティは少しもごまかしません。自分はここ2年間毎週3つの英語レッスンに通い学んだと認めています。すでにテリー、ランパード、ドログバなどは試合ビデオを見て研究しました。アンチェロッティは感じました。 「紙面の上で、私はすでにチェルシーの監督でした。そして今、この"紙面"は、すでに現実の契約になりました。」 ~もしアンチェロッティが怒ったら、部屋はめちゃめちゃ~ 「アンチェロッティの自叙伝は、イギリス人の目に写る彼の重苦しくうっとうしいイメージを打ち破るのに十分でした。読者は感じるはずです、ユーモアと、興味と、ダーティ、優れ満ちている性格があることを。しかも、本をピーアールする活動の中で、彼は眼鏡をかけて本を朗読します。その姿はフラミニやチームメイトにからかわれました」 (←「重苦しくうっとうしいイメージ」って!) 指揮の特徴に言及し、アンチェロッティは書きます。 「私の最も基本的な信条、それはいつも冷静でいること。私は両親からそれを習いました。選手時代、怪我をした時とても多く役に立ち、これは更に私の数多くを助けました。局面を補助し、選手、サッカーファン、クラブとメディアが私に圧力をかけてきても、平方寸分乱れなく冷静でいます。」 選手の前では友達であり、心理の先生です。アンチェロッティは喜んで広く活発に意見交換をします。選手の意見を聞き、当時ピルロを中盤にコンバートしたのは選手本人の申し出です。しかしだからといって、チェルシーの選手達はアンチェロッティが気が良い人だと思ってはいけません。 ベッカムは言いました、アンチェロッティとファーガソンを比べると、似ているところがあると。 アンチェロッティは:「私は選手と話し合うことが好きです。叫ぶことはありません、しかしそうとは限らない時もある。ある時ミランはボローニャに負け、私は徹底的やりました。その日選手達からは闘士が感じられず、結局私も人間ですから、私はロッカールームでめちゃくちゃな所を蹴って、テーブルを殴り、扉を蹴り、ビンを転がし、うおんうおんと私の肺の中全てを爆発させなければなりませんでした。 私は全員を1度ずつ激しく叱り飛ばし、絶対的な個人攻撃をし、しかしそれも計算のうちです。よく考えています、叱る所は叱り、褒める所は褒める。」 ~オーナーを我慢しますか?アンチェロッティの“お腹”の限度~ ミランで、ベルルスコーニはアンチェロッティに干渉するのが好きでした。しかし、彼は新しい主人に注意します。 「一部において、私はとても明確です。スターティングメンバーは私の考えるメンバーで決定し、戦術は私の考えで決定されなければなりません。監督として、これっぽっちの事でもこれは必ずしっかり捉えていなければいけません。私はどこで監督業に就いても同じです。そう、オーナーは問題を出す権利があり、監督は説明を提供する義務があり、しかし、それだけです。」 (この後、ユベントス時代「ブタ」とからかわれたコトに触れているのデスが、ユーモアを交えて書いてあり、そのユーモアの意味を読み取るコトができマセンでした(汗)しかし、ブタと呼ばれるコトについてはすでにまんざらでもない様子デス) 「そうです、私はブタです。これは何ということもなく、私は農場で育ちました。私の故郷は有名なソーセージ、ハムと各種ブタ肉製品の産地です」 おかしいことに彼は選手時代からブタと切っても切れない縁があります。 「私はとても食いしん坊です。私は22歳でイタリア代表の主力になり、しかし1982年のワールドカップは怪我で棒に振りました。回復するまで待つ日々はとても退屈で、私の体重は絶えず上昇していきました。(当時所属していた)ローマのクラブの人々は、どうして私がどんどん肥えていくのかわかりませんでした。今、私は理由を紐解くことができます。 当時私達は山の上でトレーニングキャンプをしていて、私はたくさんのキノコを刈りました。私の部屋には小さなキッチンがあって、私は毎日丑三つ時に台所で研究していました。ノーマルな研究としてはキノコパスタです。研究成果を、私は食べました。想像してみて下さい、毎日午前1時にパスタを食べる、特に私の体に、どんな影響が出るかを……」 「そうです、私はブタです」・・・なんとなく、ベイブの写真を貼ってしまいマシタが! 「1987年、ミランはトップに若き監督サッキがいました。渇望に対して一切の代価を惜しまず、フリット、ファンバステン、ライカールドなどのスターを情熱的に買っていました。私はその日、自分がまたサルディニア島でバカンスを過ごしていたことを覚えていて、ローマのクラブのトップの秘書から電話がきました。 秘書は言います:「私達はあなたを売り出しました。ローマに来てください。私はあなたに1つの住所を教えます。これによってあなたは、ミランが指導する、より高みを探し当てることができる」 「私は住所の指示に従い、その場所に着き、心の中を満たしているのは好奇心です。警備員は、私にひとつの鍵を渡し、そして私に少し目くばせをして何も言いません。その時私は彼の意図がわかりませんでしたが、しかし私はすぐに理解しました。私はビルに入り、玄関を開けると、客間はとても大きくて、テーブルの上にはシャンパーニュとデザートが置いてあります」 「この時、ミランのトップの首脳陣が現れました。彼の第1印象は、若いけどハゲ頭、1本の髪の毛もありません。この人はミラン副会長の、ガッリアーニでした。この時私はあの警備員の目くばせを思い出して、私はたちまち全身に冷や汗を出しました。その時私のニックネームは「宝物」でした。私はついに警備員の目くばせの意味を理解します。彼はきっと、私とガッリアーニの間柄が、普通の友情関係を超えると思っていたのです。」 (←アッー!) 「私が初めてガッリアーニに会った時、彼は言います。 「私達にはとても大きな野心があります。私達は来年にスクデットを勝ち取る計画があり、そしてチャンピオンズカップに出場し、2年の内にビッグイヤーを勝ち取り、3年目にトヨタカップを獲得する。」 私は時計を見ました。私から見れば、ガッリアーニは酔っぱらっているのかと思うような話を引き続き喋り、彼はまさかアルコール中毒の人だろうか?と。 それから私とベルルスコーニは電話で初めて話しました。 「私達はあなたに対して大きな期待を託しています。私達は来年にスクデットを勝ち取る計画があり、そしてチャンピオンズカップに出場し、2年の内にビッグイヤーを勝ち取り、3年目にトヨタカップを獲得し帰ってきたい。」 日どれ酔いどれ、みな酒で酔っぱらっている。彼らはミラノでどんなものを飲んだのだろうか?・・・」 *** いかがデスタでしょーか? 小皮フォーラムで紹介されていたのは以上です。他にもしあったら追記してみたいデス(笑) ガッリアーニはアンチェロッティとの契約について、2ヵ月前には話し合い結論を出していたと語っていまシタね。この自伝の発売イベントが5月25日にあったワケで、そのイベントをフラミニを始めチームメイトたちがからかっていたとゆーコトですから、きっと本当は選手たちもみな知っていたのでしょう、泣いていたピルロも、笑ってなかったカカも、「これで最後だ」と。 ソレを誰も不用意に漏らしたりする人が出なかったのが、逆に結束の固さや信頼を物語っていたようで、今つらいデス。 それにしても、監督のオーディションってこんな形で開かれているのデスね(笑) ファンバステンが、ライカールトが、ミラノでガッリアーニと食事をしていたとか、ああいうのもやっぱり何かしら意味があるのデスなぁw イタリアでは、ベルルスコーニ会長らに嫌味を言ったりせず、後腐れなく去ったねと言われているらしいアンチェロッティ。裏を返せば、後腐れありまくりで去ってもおかしくない状況だったのでショウ。 スパレッティがチェルシーの監督オーディションに参加していたコト、アンチェロッティをガッリアーニが引きとめていたコト、さすが暴露本というだけあってちょっとビックリな事実も書いてはありマシタが、本当はこの本にも書いていないコトが、色々あったんじゃないかなぁと思いマシタ。 この自伝には、ロンドンの人々にアンチェロッティを知ってもらうという役割もあるのだそーデス。ミランを追い出されて、なし崩し的にチェルシーに就任したよーな印象もあったのデスが、そういうワケではなかったのデスね。 せっかく製本したんデスから、クリスマス前に燃えるゴミで捨てられマセンよーに(笑) もしスコラーリがチェルシーで成功していれば、アンチェロッティはまだミランにいたかもしれマセン。スパレッティがローマと契約を延長したように。しかし、こうなる運命だったんデスね。ミランは今でも大変な状況なのに、自分はチェルシーでサクッと新しい挑戦を始めよってと思わないでもないデスが、えーそれが監督の特権なのデショウ(笑) もしかしたらアンチェロッティ監督は、「渇望に対して一切の代価を惜しまず、フリット、ファンバステン、ライカールドなどのスターを情熱的に買っていた」、昔のミランの姿を、今のアブラモビッチに重ねたのかもしれないなと思いマシタ。
by sakasakasakaa
| 2009-06-08 20:40
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ひょっこり変態島
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